24/07/06 紀州かつらぎ熱中小学校 教頭 中前光雄 先生

中前先生は高校教員時代、指導主事、教頭、校長と38年の教師生活を経て、教員を目指す大学生を10年間指導。その後、現在まで新城地区の自治区長を16年間続け、また、洋画家として作品を発表し、「文化の充実と産業とのバランス共生は町の発展につながる」と、水とみどりの美術館をつくり運営しています。

かつらぎ町新城地区で、『新城米』を作り、トマトと葡萄の生産に従事しながら自然と共に生かし生かされる日々を過ごしています。

 

目次

1.教師生活を振り返る ~心に残る2人の生徒~

「最近、2人の教え子から偶然、電話がありました」と、中前先生。

高校で学年主任をしていたときのこと、自分が担任していたクラスに素行の荒れた生徒がいました。中学時代にお父さんが自ら命を絶ち、その後非行に走ってしまったのです。
同級生や先輩後輩にも影響があり、中前先生は退学を言い渡しに行ったのですが、ご家族に懇願され、
「この子の面倒をもう一度見てくれ」
と、逆に職員室で先生方にお願いし説得して、4年かかって無事に卒業した男子生徒のことでした。

彼は卒業後、大学には行かずに、隣町の職員になりました。

役場の仕事を始めると、いろいろな経験をしてきただけに問題を解決する力があり、揉め事をすぐにおさめることができました。

中前先生は、
「世の中の厳しさと荒波に飲み込まれずに、自分の生き方を貫く。僕は逆に勇気をもらった、自慢の教え子です」
と、語ってくださいました。

電話がかかってきたもう1人の教え子は、高校で教頭をしていた時に学校見学に来た、中学で不登校だった女子生徒です。

彼女にとってはどこの学校に行っても、「学校の門」は入りにくい雰囲気で、元々学校の先生方を毛嫌いしていて話しにくかったそうです。
ところが中前先生とはとても話がはずみ、彼女のお母さんも大変喜んでくれたとのこと。

入学し、つつがなく卒業した後、彼女は障害のある人たちについての勉強をし、高校の非常勤講師になり、また精神医療をも学びました。

現在、不登校になった子供たち、学校行けない子供たち、精神的につらい子供たちを何とか社会復帰できるように教えていきたいと頑張っている彼女と、中前先生は今も連絡を取り合っているということです。

 

2.指導主事時代・教頭、校長時代

その後に就いた指導主事の仕事は、予算がどうの人数がどうのという慣れない事務仕事でした。

また、学校の事故や損害賠償のことで遠方へ行き、思いもよらないことをたくさん勉強し、辛いことを経験した時代でした。

そして、再び何とか現場に出たい、ということで教育現場に復帰し、教頭として5年、校長として5年を勤め上げました。

校長として最後の卒業式が終わり、やれやれと思った時のこと。
教頭先生が、
「本年度で中前校長は退職です。生徒たちが校長に卒業証書を手渡したいと言っておりますのでよろしいですか」
と言います。
6クラスから12名の生徒が演壇に上がり、
「校長も上がってください」
と皆が拍手を始め、驚きながらも壇上で卒業証書を受け取りました。
卒業証書にはみっしりと生徒からのさまざまなメッセージが書かれていて、
「校長先生、何か一言!」
と言われたけれど、感極まって何も言えなかったそうです。

教師生活の最後の日には、中前先生のために廊下でブラスバンド部が演奏し、外に出れば野球部が胴上げをしてくれて、教師冥利に尽きる、良い思い出ばかりの38年の教員生活でした。
 

3.自分がまず先頭に立たなければ

最後に校長を務めたときの生徒たちに、
「10年後、20年後の僕を見ててくれ」
そう中前先生は言ったそうです。校長の退職は単なる通過点。
「10年後、僕が朽ち果ててたら、お前らは激飛ばしに来い。お前らが10年経ってグズグズしていたら怒るで」
と。

40歳を過ぎた頃から、否定する人生はやめよう、全て肯定しよう、人に頼まれて、嫌は絶対言わないでおこう、僕でよかったらやっていいんですか、ここまでしかできませんけど、やっていいんですかっていう人生に、中前先生は変えたそうです。

地域の人に「区長やってくれませんか」と言われた時も快く引き受け、以来、今年で区長16年目。
いつでも代わるよと思いながら、でも最近、まだ当分の間は「やります」と手を挙げようかなと思っているそうです。

区長になってから、36人の区民を見送りました。そして新しく31人の青年や子どもたちを迎えました。かつらぎ町の中でも新城の平均年齢はとても若いそうです。

定年退職についても、中前先生には考えるところがあります。
「60歳定年が制定された時から平均寿命はかなり伸びているにもかかわらず、定年が延びてないのはおかしい。だから定年をもっと延ばして、元気に働ける人を増やせばいい。そのためには、自分がまず先頭に立たなければ」
そんな気持ちで日々、活動されているとのこと。

「かつらぎ町には定年がない会社があります。かつらぎ町は立派な人が多い。そんなところでずっと区長をやっています」

 

4.水とみどりの美術館

ここからは、中前先生語録です。
授業中、心に残った言葉を主にして書かせていただきます。

「区長をしながら水とみどりの美術館をつくり、新城小学校の跡地に絵画を展示させていただくことにしました。ここでその動画を見てもらって後半の話をします」
(説明を聞きながら作品を見せていただきました。)

「強く思っているのは産業と文化です。いくらいい仕事があって産業が積極的になったとしても、文化がないと。
日本人は文化を大事にする。世界遺産は継続してずっと管理してくれる人たちがいるから世界遺産として残るのです」

 「僕の美術館も、昭和の我々がこれだけ頑張ってるんです、ということをみんなに見せようと言ったら、皆賛同してくれました。

今までやってきたことにもうちょっと誇りと自信を持って、我々はこれを継続していくんだっていうことを、やってみたらどうかなと思っております」

 

5.前回の講師、ガンプ鈴木さんのこと

「彼の言ったことにすごく納得して、なんでこれ(人力車)を引っ張って5000キロも走るのかって思って、途中でもういい、やめて帰りたいって思うことが度々あると思うんです。でも、行ってしまうんです。

それと同じように、行けるところまで行こう、と。それで倒れても。

365日やってね、364日、つらくても後の1日が良かったら、1年ってものすごく幸せだろって思います」

 

6.永六輔さんのこと

「教え子のKという生徒が永六輔さんのファンで、彼は永六輔さんに講演に来てくださいと手紙に書いて書いて書いて書きまくって、なんと来てくれることになりました。

そのときの永さんの話の中で忘れることのできない話が、ロシアンティーです。生き方がちょっと変わったような気がします」

~ロシアンティーの話~
紅茶の好きな永さん。とあるホテルに宿泊した際、ロシアンティーを注文したのに、
「そのメニューはやっていません」
と断られてしまう。
「朝食に付けるイチゴジャムがあるでしょう。それをちょっと紅茶に入れてくれればいいのですが」
とまで言ってみても、イチゴジャムはあるが、ロシアンティーはやってないから駄目だ、と。
支配人を呼んでも何を言っても、駄目。
永さんは、
「結構です、こんな融通の利かないホテルには二度と来ません」
と言って行かなくなリました。


「『日常でも、こんなことはありませんか』と、永さんは会場にいる僕らに聞きました。
自分たちが住みやすいようにこんなことをしたらいいなと思いながら、規則に負けてることってありませんか。ちょっと自分達が作った規則を曲げたら生活がしやすいのに、できないって言い訳をしてることはありませんか」

「以前、僕もこんなことがありました。忙しい中、昼休みに税金を納めに町へ行ったのに、休憩中で取り扱いできません、と。警察でも同じことがありました。

それから何年か経って、昼休みも納めてもいいようになりました。警察も昼OKになりましたね。永さんの言いたかったのは、こういうことだった。規則って我々の生活がしやすいようにあるんです。自分たちの生活で首絞められてませんか?そんなときはおかしいって言おうよって永六輔氏に言われました」

「教員時代は生徒指導やってたので、生徒たちが理不尽と思うことがいっぱいあった。おかしいって思ったらおかしいって言わなあかんと」

 

7.マーク・トウェインのこと

「マーク・トウェインはアメリカの文学者です。彼が言うには、人生で最も大事なことを二つ挙げるとするならば、

一つ目は、生まれてきた日
二つ目は、何で生まれてきたかわかった日。

何のために俺は生きてるんだろうかとか、自問自答するんです。
何のために生きているの、なんかせなあかんって。

だから今度区長に立候補しようかな、もうちょっと苦労したいな。家族やみんなに迷惑かけるけど、もうちょっといろんなことしたい。そして、このために俺は生きてたんだと、生きる理由を見つけたい」

 

8.リントネル(オーストリア教育学者)と栗田定之烝(秋田県の江戸時代の藩士)

「リントネルは、何を知っているかではなく何をしようとしているかでその人の価値が決まるという、僕の教師の基本を作ってくれた人です。

定之烝は栗田流の植林法を確立し、能代市から秋田市まで120kmにわたる砂丘地一帯に植樹し、田畑や家屋が砂に埋められることのない黒松の砂防林を完成させました。

自分のためにやったのではない、これをすれば、きっとこの秋田のここが潤うと信念を持ってやってる。そういうのを見ると、うん、そう、ってなんかモリモリと出てくるんです。

何にもしないで文句だけ言う、何も動かないと、その町は疲弊していくと思います」

 

9.終わりに

「過疎が進むとか、人がいなくなることをそんなに悲観してません。元々はそんなに多くないので、日本は過密しすぎたのでは。

過疎が進むとか限界集落になるということをマスコミや学校はすごく悲観的に見てますけど、そんなに人数少なくなるっていうのは大変なことなのか。むしろその中ですごく有意義な生活ができるのでは。

今住んでるところを誇りに思うような生き方を、自分らで構築しないと。

今の自分らが住んでいるところを何とか将来、人数少ないのは当たり前だっていうやり方をやっていきましょうよ。

大型自動車の免許取りに行ったのもそういうことです。

高齢者もいろんな高齢者があるっていうことを覚えておいてください。年齢が原因でもないのに高齢者という言葉で片付けようとするという悪い癖を直しましょう」


10.授業を終えて



時に感動し、時に爆笑の渦、中前先生のお話にいつの間にか引き込まれた時間でした。

パワーポイントの資料の表紙がピンクの優しいササユリでした。中前先生のロマンチストな一面を見たようで印象的でした。

どうもありがとうございました。

(授業レポート:田中裕子)

 

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