ベストセラー作家 望月諒子先生との読書会
1月7日の授業には、株式会社集英社クリエイティブ顧問 鈴木晴彦先生のご縁で、ベストセラー作家の望月諒子先生がゲストとして来校されました。望月先生は2001年『神の手』を電子出版してデビュー。2010年には美術ミステリー『大絵画展』で第14回日本ミステリー文学大賞新人賞を受賞しました。近年は文庫化された社会派ミステリー『蟻の棲み家』が再び注目を集め、昨年末、新潮文庫の「紅白本合戦」では白組の5位にランクインしています。
そんな望月先生をお迎えして授業の後におこなわれた読書会には鈴木晴彦先生も同席してくださり、課題図書『蟻の棲み家』を巡り、さまざまな意見が交わされました。
物事をただフラットに見る
『蟻の棲み家』は日本に現存する貧困の連鎖をシビアに描いた小説です。そのため参加者からは、今の世の中を憂慮する望月先生の主義主張を現している作品なのでは、という意見が出ました。
でも先生に伺うとまったくそうではなく、フラットな視点で現在の日本の社会をありのままに提示しただけ、だということでした。まだ世間の常識にまみれていない5歳くらいの子どもが、しっかり知識だけを得て社会の現状を見たならこんなふうなのではないか、それを示したのが『蟻の棲み家』なのだそうです。
現代の世の中はわかりやすく整理されており、「成功者=経済的に恵まれている」という単純な図式が幅を利かせています。社会正義についても、誰もが「正義」の中で安心して生活をしたいため、他人の行動の奥深くを見ようともせず、マークを付けて人を選別、除外しがちです。望月先生はそんな現状をただ提示されたのだということでした。
また、ふた昔ほど前の日本の社会について、望月先生は「自分の才能をどこに使うか、本人の自由だった時代」という言葉で表現されました。頭の良い貧乏な人がいたり、生きづらい人にもそれなりに認められる場があったりして、幸せのかたちが多種多様だった時代。主人公・末男の幼少時代を描いた場面では、そんな大人たちが少なからずいてほっとするのですが、最終的に末男を救うまでには至らず、貧困からくる負の連鎖の根深さをより感じることとなりました。
木部美智子の存在
『蟻の棲み家』には木部美智子というフリーのライターが登場し、物語の道先案内人となっています。美貌の持ち主でもなく派手なアクションを披露するでもなく、彼女は地道に足を使い、こつこつと情報を重ね合わせ、真実へと迫ってゆきます。望月先生のデビュー作『神の手』にも登場する彼女は、望月先生によると「決まりきった型がなく、聡明で身動きのしやすい人」だとのこと。
『蟻の棲み家』では殺人や恐喝、暴力的な貧困など陰惨な状況が次々と顕わになる中、木部美智子が現われると、すっ、と空気が澄む感じがして、垣間見える彼女の整った生活から、背筋の伸びたプロ意識の高い女性の姿が浮かび上がってきます。人と向き合って耳を傾け、探りを入れる様子がとても現実的で、この物語が自分と地続きの場所にあるのだと感じることができました。
小説のタイトルはどのようにして決める?
ところで、『蟻の棲み家』はとても印象的なタイトルですが、望月先生はどのようにしてこの小説のタイトルを決めたのか、参加者としてはとても気になるところでした。
「物語の内容は伏せておいてタイトルをたくさん書き並べ、編集者を始めいろいろな人に見てもらいました」
そうして最終的に決めたものが『蟻の棲み家』だそうです。主人公の末男は土の下、社会の下層で一生懸命に努力をするけれど、それは誰にもわからない。蟻の巣のようにさまざまな部屋を作ってゆくけれど、どれが良い部屋でどれが悪い部屋なのか末男にすらもうわからなくなってしまっている。どんなに戦っても報われないダークヒーローとしての末男を表すものとして『蟻の棲み家』がタイトルとして決まったとのことでした。
本の中にいる人を解放する
読書会では望月先生の次回作の資料を見せていただく機会もありました。綴じられた紙の束はかなり厚く、びっしりと細かな書き込みがされているものも。資料は単に調べて終わりではなく、しっかりと自分のものにしてから小説を書き始めるのだそうです。そうすると、
「踏み込んで書くことができるため、作品そのものの生命力が強くなる」
とのこと。物語は最初と最後が出来上がっていて、数学の証明問題を解くように理論を重ね、多層的にその間を作り上げてゆくそうです。『蟻の棲み家』の場合は準備に約1年、執筆に約1年半をかけているということでした。
また、望月先生にとってご自身の作品は、
「本の中に人間が埋まっている。本を開いて読んでもらうと中で生きている人が飛び出してきて、外へと解放することができる」
という感覚だと語ってくださいました。そのため、たくさんの人が本を読んでくれることがとても嬉しいのだそうです。
望月先生から参加者への問いかけ
読書会の中で参加者の意見が分かれたのは、『蟻の棲み家』のラストシーンでした。清々しく受け入れられた、という人と、これで良かったのか釈然としない、という人がおり、この小説はその答えを読者自身が見つけるための問題提議となっているのでは、と思いました。
読書会では望月先生から、
「貧しい子どもが食べるものに困ってパンを盗んで逃げました。この子は犯罪者として裁かれるべきなのか、見逃されてもよい子なのか?」
と、私たちに問いかけがありました。盗みは悪いことだから裁かれて当然、というのが、常識的な答えなのだと思いますが、
「このパンを食べることで、空腹を満たしたこの子の頭が正常に働きだし、これからの人生を変えようとしたなら、どうでしょう」
もちろん、盗みに味をしめてそれを繰り返す、という事態もあり得るのですが、このように答えにはいくつかの選択肢があることすら気付けないのが現在の世相。思考が単純化され、刷り込まれた平坦な善悪でしか物事を判断できなくなっている現状に望月先生は危機感を覚えておられるように感じました。
読書会を終えて……
望月先生との読書会で私がことに感じたのは、フラットに物事を見る、ということの難しさでした。「一般的には」「常識的には」との意識が自分の中にはたくさんあり、それに当てはめて物事を考えてゆけばとても楽なのです。でも、フラットに見るためにはそれらを取り払い、目の前にある事実を自分はどう受け止めるのか、自分自身の中に基準を持って考えなくてはなりません。それはとても精神力の要ることです。
ただ、コロナ禍やウクライナ侵攻など、今までにない大きな変化に見舞われている現在、世の風潮やネット上の情報に流されてしまわないためにも、事実をフラットに捉え、自分で判断する意識を持つことはとても大切だと思いました。
ひとりで『蟻の棲み家』を読んだだけでは気付かなかった物の見方をたくさん教えていただいた今回の読書会。望月諒子先生、鈴木晴彦先生、どうもありがとうございました。
(読書会レポート:ライター部 大北美年)
コメント