25/01/11 南方熊楠記念館館長 高垣誠

高垣先生は、白浜町にある南方熊楠記念館で館長をされており、南方熊楠の生涯とその功績について、授業をしていただきました。

目次

南方熊楠の基本情報

南方熊楠は、知の巨人と呼ばれ、様々な分野にわたる研究者として知られています。様々な知識をインプットしていくことには非常に長けていた一方で、それをアウトプットする部分が出来ておらず、「南方熊楠は〇〇をした人です!」と端的に説明しづらい人です。

南方熊楠は、江戸時代末期に和歌山市で生まれ、和歌山の学校を卒業後、19歳から33歳までの14年間をアメリカやイギリスで過ごしました。その後、田辺市で住居を構え、74歳で亡くなりました。

知の巨人としての南方熊楠

南方熊楠は粘菌などの生物学を中心に地学、天文学、民俗学、宗教学、考古学、古典文学など、本当にジャンルを超えて研究をしていました。当時はタブーとされていた性について研究していたこともあり、奇人変人と呼ばれることもありました。イギリス時代に世界中の本を読み、10数ヶ国語を理解できるようにもなり、専門という枠にとどまらず、広く深く掘り下げて研究していました。

南方熊楠は、好奇心旺盛で、集中力、記憶力が高く思ったことを行動に移すような人であった一方で、権威や肩書きを嫌っており、公の科学者のことをあまり言いようには思っていませんでした。

世界一長い履歴書

南方熊楠は、自宅の庭に研究所を作るため、寄付金を募ります。その中で、自分が世間で言われているような奇人変人ではないと説明するために、履歴書が必要になり、58,000字にもなる履歴書を書きました。長さは7メートル80センチになります。2部構成になっていて、20日ほどで書き上げられています。

昭和天皇へのご進講

地元では奇人変人と言われていた南方熊楠ですが、転機が訪れます。昭和天皇が熊楠に会いたいと、軍艦に乗って、田辺まで会いに来ました。そして、20分あまり生物のご進講をすることになり、その評価が180度変わることになりました。

その際、南方熊楠は生物の標本を献上することになるのですが、ミルクキャラメルの段ボール箱で標本を作り、献上しました。それが強く印象に残ったのか、昭和天皇が872種残した歌の中で、唯一フルネームが出てくるのが、南方熊楠でした。これが契機となり、昭和40年に記念館が作られることになりました。

南方熊楠と牧野富太郎の関係

南方熊楠は植物の生態学、牧野富太郎は植物の分類学と同じ植物学でも学問のスタンスが異なっていました。熊楠は新種の発見には消極的で、学会にも属さず、自分のインプットに力を入れていた一方で、富太郎は全国を調査して新種を発見し、学会に所属して後進を育成しながら多くの著書を残してきました。

そんな二人なので、お互いの関係性は微妙で、直接会う機会が3回あったのですが、それもお互いに潰してしまいました。

南方曼荼羅の世界

真言密教の中の曼荼羅の世界をベースに様々な学問で学んだ生物学的な要素を取り入れた南方曼荼羅を作成しました。世の中では立体的にいろんな出来事が起きていて、複雑に交わり、人間の世界に及ばない世界もあるということを表しています。

生物の多様性の大切さについて、いち早く気づいた熊楠は「世界にまるで不要なものなし」という言葉を残しています。これを機に熊楠は自然保護活動に力を入れて行きます。

神社合祀反対運動

明治の時代、政府が神社の統合を進めました。土地を売って、資金を得ること、人々の考え方や信仰を一つにまとめることが目的でした。

熊楠が新種の粘菌を発見し、ものすごく大切にしていた神社の土地も合祀されることとなり、森が荒らされ、木が切り倒されました。これを機に合祀反対運動を起こすことになりました。

メディアやマスコミを使い、時には反対運動で捕まりながらも、熱心に活動し、那智の滝の裏の原生林をはじめとする多くの史跡や自然を守りました。

平成16年に熊野古道が世界遺産に登録されましたが、景観や文化の保存も登録の条件になっており、100年以上前に寺社の合祀を防いだことが大きく評価されたと言われています。

まとめ

江戸から昭和にかけての時代に多くのことを学び、物事を横断的に捉えていき、多様性の大切さに行き着いたことに大変驚きました。

多様性を尊重する中で、重要となるのは一つの分野にとらわれない、幅広い知識と自由な発想であると実感しました。

高垣先生、ありがとうございました。

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