10月7日、第三期最初の授業は高野山の歴史、文化を研究しておられる
木下浩良先生です。
木下先生は福岡県柳川市出身で、とてもお優しい語り口でしたが、親に反対されても高野山で日本史を学びたいという確固とした信念をお持ちの先生でした。
先生はお大師様のことを親しみを込めて「空海さん」と呼ばれます。
空海さんは山岳修行者として各地で修行をし、当時の神様祀りの中心だったこの伊都地方の天野にも訪れ、四方を山に囲まれた丹生明神さまのお膝元であるこの地にお寺を開きたかったのではないかとの推論を話されました。
町石道も慈尊院からではなく天野から出発したなら、根本大塔(壇上伽藍)がちょうど180町になるということでした。
高野山の歴史
空海さん開創以前の高野山は、丹生明神という女神様の霊山でした。奥の院のずっと奥の良い場所に神社があり、高野山はお寺ができるまでは神様の地であったそうです。
(最古の絵図「金剛峯寺根本縁起」大門は大きな赤い鳥居が描かれています)
高野山は山岳霊場の山として入山できるのは男性の修験者だけで女人禁制でした。しかし仏教が伝来するまで、日本には古来からの聖なるものに対する信仰があり、霊山として恐れられてはいましたが、女性差別はありませんでした。
また奈良時代、律令国家になるまでは女性中心で神様祀りをしていました。(山神様の多くは女性でした)縄文時代の土偶など見てもほとんどが女性です。
(古い信仰が伝わる沖縄では女神信仰で男性禁制)
高野山は岩盤の上に立っているので水が豊富で地震の被害が少なく、龍が住み絶えず水を吐き出しているという伝説があり、「蛇腹道(じゃばらみち)」や「蛇尾(じゃお)」の地名として残っています。
高野山は、あの世の「山中他界」。もともとは亡くなった人を背負って山に捨てに行く姥捨て山でした。中腹の花坂へ埋葬し、その後霊は昇華して山頂に行き、子孫を見守っているというものです。死んだ人の魂は別の世界に行ってしまうのではなく、現実の山の中に死者の霊が集まる他界があると考えられていました。(骨のぼり)
神様の御山から仏様の御山へ
空海さんは高野山を開き真言宗を広めましたが、身分の限られた人だけでなく庶民を対象とした初めての学校「綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)」を京都に創立され、高野山での修行を青年僧に義務付けました。
空海さんは苦行しても悟りは開けない、自分の心の中に仏様がいる、生きていること自体が成仏であると言われました(即身成仏)。そして、それまでの山岳信仰の女人禁制の結界をぎりぎりまで小さくされ性別の差別をしませんでした。
空海さんには多数の支援者がいたため大塔など大きな伽藍の建築物を建てることができたということです。
高野山登山の意識の変化
平安時代、徒歩で登山した白河法皇。大声を出すと雷や暴風雨など御山の懲らしめにあうと恐れて道中は大声を出せませんでした。
鎌倉時代の後宇多法皇も初めて草履をはき徒歩で登山をし、慈尊院の下乗石の前で高野山に入ったと涙を流されたそうです。
民衆も老若男女問わず大門から中に入りました。(女性は男装していったそうです)
江戸時代は女性たちが果敢に女人道から奥の院の御廟に入りました。女性は女人堂に宿泊し、夫の宿坊から食事が運ばれていたそうです。
昭和5年にケーブルカーが開通した当時は足や身体に不具合を持つ人たちがゴザに座って「南無大師遍照金剛」をずっと唱えなから乗っていったそうです。
現代、マイカー通勤の時代とともに御山にたいする恐れ(畏怖、畏敬の気持ち)の感覚が鈍くなってきていると先生は話されました。
授業を終えて
紀北地方に住む私には高野山はとても身近な場所で、よく知っているつもりでいましたが、先生の授業を受けてみると知らなかったことが沢山ありました。
現在でも続いている「骨のぼり」の風習がどのようにして始まったのかなど民俗学の観点から見る高野山のお話はとても興味深いものでした。
日本人は昔から山や岩や木など自然の中に神様を感じて暮らしてきました。
改めて自然に対する畏敬の念を感じる心は失わずにいたいと思いました。
今回の木下先生の授業を受けて、
一期目の神崎先生の「見える世界、見えない世界」
黒笹先生の「歩き遍路の愉しみ」
二期目の仙道先生の「人間中心主義からのウイルス感染症」
それぞれの先生方のお話が繋がって大きなひとつの流れになっているように感じました。
校歌に歌われているように、お大師様のふところで学ばせて頂いているご縁を強く感じる授業でした。
(授業レポート:読書部 永山郁子)
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