25/03/01 一般社団法人青州の里 評議員 谷脇誠

谷脇先生の授業では、華岡青洲の生涯と功績、そして華岡青洲の精神や生き様から現代で生活する中で参考にすべき点について、授業をしていただきました。

目次

1、華岡青洲の生い立ち

華岡青洲は1760年に紀の川市で生まれました。父、祖父と揃って医師であったことから、難病とされる病気を治したいと医師を志しました。23歳になると、京都で医学の勉強に励み、特に内科と外科を勉強しました。
3年後、26歳になった青洲は和歌山に戻り、家業を継ぐこととなりました。

2、麻酔薬「通仙散」の開発

医師として働く中で、青洲は、「外科の治療方法を知っているだけでは、治すことができないこともある。患者が痛みに苦しんで、その間に死んでしまうのではないか。患者の痛みを和らげる麻酔薬を開発する必要がある。」と考えるようになりました。
そこから、青洲は10年以上の研究を経て、37歳の時に曼荼羅花や鳥兜を主とした6種類の自然の薬草を用いた全身麻酔薬「通仙散」の開発に至りました。

3、乳がんの治療

10年の研究を経て麻酔薬を開発した青洲ですが、当初の目標である難病の治療に取り掛かりました。青洲が麻酔薬を開発したことを聞きつけ、4人の乳がん患者が青州を訪ねました。
治療方法を説明すると、当時は乳房にメスを入れることが非常識とされていたこともあり、4人のうち3人が辞退することになります。しかし、1人は姉を同じ乳がんで亡くしたことがあったことから、手術を受けることとなりました。治療内容を説明し、患者が納得した上で治療を受ける現在でいうインフォームドコンセントを青洲はこの時に実践していました。
1804年、いよいよ乳がんの手術を行います。当時、西洋での乳がんの手術方法は麻酔をせず乳房を全て切り落とすというものでしたが、青洲は全身麻酔を行い、腫瘍部分のみを摘出する手術を成功させました。西洋で麻酔が開発されたのは、それから42年後の1846年なので、世界で初めて、青洲は麻酔での手術を成功させました。

4、麻酔手術の普及

当時、外科の医師は軽い傷や腫れ物の治療が主で、大きくメスを入れる必要がある傷などは見捨てていましたが、麻酔の導入後はこういった傷も治療することができるようになりました。青洲は乳がん以外の手術も含め、150回以上の麻酔手術を行いました。
麻酔手術は外科だけでなく、整形外科や泌尿器科、耳鼻科などにも広く応用できる治療だったことから、全国に青洲の治療方法が知れ渡ることになり、2250人以上の医師が青洲の元を訪ね、麻酔手術の技術を学びました。

5、活物窮理

青洲は外科手術だけではなく、衛生管理を通じた予防医学においても先駆けとなりました。伝染病が流行っていた時代に、排水溝や浄化槽、入院用の病棟病室を作り、手術前の手洗いを徹底していました。
青洲は治療する医者は内科も外科も両面から患者を見て、患者が天命を全うできるよう治療に全力を尽くすべしとして、「活物窮理」を理念として唱えました。

6、地域への貢献

青洲は郷土愛にも満ちており、水の便が少し悪かった地域のために、私財を投じて農業用ため池を整備しました。他にも近隣の寺社へ常夜灯を寄進するなど、社会貢献活動も多く行なっています。
地域の人々は青洲に対して感謝しており、患者の付き添いの方の宿がない時に自分の部屋を貸すなど、青洲に協力しています。

7、現代において青洲から得る学び

青洲は大きな功績を持っていますが、贅沢もせず、質素な生活をしていました。その一方で、ため池を整備するなど地域のために私財を投じていました。だからこそ、地域の人々は青洲に対する協力を惜しみませんでした。
青洲は世のため人のため地域のために尽力した人格者であり、 郷土愛に満ちて、地域社会、人類社会に貢献しています。
現代においては、ボランティア活動などの社会貢献の精神がますます重要になっております。こういった助け合いの精神を青洲から学ぶことができるとともに、改めて価値を見出すことができます。

まとめ

華岡青洲の功績を通じて、現代においても大切にするべき考え方に気づきを与えてもらえる良い機会になりました。

谷脇先生、ありがとうございました。

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